東善寺HP  小栗上野介の遺品      火縄銃に父忠高の製作銘                   





火縄銃に「小栗又一 忠高造」の銘
 ▲銃身を外したところ 銃把が田付流を示している 家紋「丸に立浪」 銘はこの真裏にあった
 
 東善寺の小栗上野介遺品館に展示している遺品は2700石の旗本にしては数が少ない、と言われることがある。

 ご存知のとおり、小栗上野介父子が西軍に殺された。そのあと江戸から東善寺に運ばれていたたくさんの家財道具は全て西軍が没収して高崎に運び、嶋屋で入札によって売却してしまった。殺された後も舟で倉賀野河岸まで届いたたくさんの家財は、受取人がいないためセリ売りに掛けられ、ほとんどが散逸してしまった。新政府軍が行なった強盗殺人といえる。

 いま展示している品は寺に伝わったもの数点のほかは村人が「お殿様から頂いたもので」と大事にしてきた品を寄贈あるいは寄託されたもの。この火縄銃は原田實氏の昭和30年代の寄贈品。
 
 そのうち、火縄銃を手入れに出したところ、鉄の銃身の裏側(家紋の真裏でふだんは木部に隠れて見えない部分)に次の銘が見つかった。
              小栗又一 忠高造  ※「又一」は小栗家四代忠政以来、代々襲名した名前。十二代忠順も「又一」だった。
 この銘のある場所は刀の柄にあたるところで、ふつう鉄砲鍛冶の銘が入るところ、銘がない場合「無銘」となる。 
 手入れを仲介した発見者峯田元治氏(日本銃砲史学会)によれば、旗本が自ら銃を鍛えることは珍しく、これまでこういう例は見たことがない、とのこと。
 
  小栗忠高は

・小栗家11代忠高は江戸駿河台の旗本中川飛騨守忠英(ただてる)の四男。初名は堅固。文化六年(1809)一月三日生まれ

・文化十年(1813・五歳)七月、小栗忠清が病気となったので、家名断絶を防ぐため小栗家に五歳で養子として入り、忠清の娘クニ(邦子)の婿となる。
・同年七月二十八日、忠清は二十二歳で病死。

・文政九年(1826・十八歳)御小姓組に御番入り、天保十三年(1842)三月将軍家慶の白書院広縁での剣術御覧に上覧を得る。四月、乗馬を上覧。
・弘化四年(1847・三十九歳)十月、持筒頭。  ※銃を鍛えていたのはこの前後ではあるまいか(忠順はこの年二十一歳)
・嘉永四年(1854・四十六歳)九月、新潟奉行として赴任。
・翌安政二年(1856・四十七歳)七月、新潟において四十七歳で病没。新潟市法音寺に葬る。

・長男 忠順ひとり  長女貞子は忠順が八歳のときに早世。
     
▲大正4年月忠高の墓参をする大隈重信・綾子夫妻                            小栗忠高の墓 ・ 新潟市法音寺 
(墓碑裏の碑文は東善寺に拓本がある)
小栗忠高の位牌 忠高院殿天眞清鑑居士
・新潟市法音寺
          銃の銘「忠高造」の意味

・旗本が自ら銃身を鍛えていたことは珍しい。
・息子忠順も砲の研究を熱心にしていたと伝わる。
・探究心が強く、つねに現場をきちんと抑えるリアリスト忠順の性格に、父忠高の性格が強く影響していると思われる。

尾栓ネジ 鉄砲が種子島伝来して以来、鉄砲鍛冶は尾栓ネジを一本ずつヤスリを掛け手作りしてきた。雌ねじの多くは雄ネジを入れた銃身を熱して叩き、雄ネジのネジ山に合うよう整える「熱間鍛造法」で作ったという。一本ずつ造るから、「ネジみたいなもの」と言えようが、よく作ったものだ。丸い穴は棒を挿してT字型にして回すため。