小栗上野介(東善寺) ● ● 幕末の洋式帆船
日本人が造った  
幕末の洋式帆船


日本近海にはペリー来航以前からロシア船の南下事件などがあり、1853(嘉永六)年ペリーが来航して開国を要求したため、幕府も諸藩も海防策として大船建造の必要に迫られた。ペリーが来年の再来日を告げて帰ると、同年九月幕府は1638(寛永十五)年以来の「軍船以外の大船建造の禁」を解き、約200年間の鎖国令で遅れていた造船と航海技術を学び始めた。
 
 そして、蘭書の翻訳、外国船の見学、と日本人特有の努力で洋式帆船の建造に着手した。
 幕府は鳳凰丸、 
 薩摩の島津斉彬は昇平丸、
 水戸の徳川斉昭は旭日丸、
 仙台藩は開成丸、
と、莫大な資財と知能、技術を投入し幾多の困難を乗り越えて完成させた。

 短期間に洋式帆船建造を成し遂げ、実用に供した努力と技術の成果は誇るべき文化財とも言えるものであろう。

 帆船模型製作者の岡崎英幸さんは、そういった貴重な日本人の努力の歴史が埋もれているのを惜しみ、模型を作成していた。そしてポウハタン号の制作を快諾した岡崎さんは、すでに制作保有していた鳳凰丸、昌(昇)平丸の二隻も東善寺へ譲ってくださった。

幕府が造った日本最初の洋式軍艦
       
鳳凰丸        

約600トン 長さ約38m 幅約9m
浦賀の与力中島三郎助が幕府の命を受け、1854(嘉永七)年5月10日完成。ペンキがなかったので、漆塗りで仕上げた。
帆の黒い横線は幕府の船を表す。
模型制作:岡崎英幸 東善寺所蔵

薩摩藩が造った洋式軍艦
    
昌平丸  

約370トン 長さ約31m 幅約7m
薩摩藩が建造し1854(嘉永七)年12月12日完成。
はじめ昇平丸、幕府に献納されて昌平丸と改名。

模型制作:岡崎英幸 東善寺所蔵

勝海舟は、鳳凰丸や旭日丸を「外観を西洋船に似せただけ。造りは脆弱(ぜいじゃく)で速度も出ない。役に立たない悪船だった」と酷評した。その評価がのちまでの通説となり、日本人だけで造った初めての洋式帆船がかえりみられない原因となった。

 近年の研究によって、鳳凰丸や昌平丸、旭日丸が外観だけのものではなく、船体内部もしっかりと本格的に造られた、実用的な船だったことが判明した。


和船の豆知識

大船建造の禁」・・・幕府は、豊臣家が大阪城にいたころ西国大名から500石以上の船を没収し、1635(寛永十二)年武家諸法度改定で「5百石以上之船停止事」とした。
 しかし3年後「しかれども商売船はお許しなされ候」と「軍船以外はいい」という新解釈を通達している。諸国大名の大きな軍船を警戒しただけの話である。だから、幕府の御城米を大阪から江戸へ運ぶ船151隻のうち120隻は千四百石から千六百石積みだった。兵庫の船主・船頭の高田屋嘉兵衛が択捉(エトロフ)への航路を開いた船は千五百石だった。

間切り」・・・明治以来「和船は追い風でしか進めない」という俗説で語られてきた。しかし「間切り」という航法で斜め前からの風を受けてジグザグに前進する航法がふつうに行なわれていた。
「まとも」・・・船尾を「艫・とも」といい、真後ろからの風が「まとも」な風。次第に「まともな人」などと一般化して使われるようになった。
「出戻り」・・・いったん船出したが風向きや空模様が悪く同じ港へ戻った船。しだいに、離婚した女性が実家に帰るのをさす言葉になった。
「ご新造」・・・新調した船の意味だった。一般化して新婚の奥さんをさすようになった。

   ◇資料:「船絵馬」ー名画日本史ー朝日新聞2000(平成12)年7月30日