東善寺ー山だより ●● 山の本 |
山の本あれこれです。 |
●群馬県山岳連盟関係の山の本 | |||
須田栄一・写真集 「谷川岳への誘い」 2004・平成16年刊 |
群馬県前橋市在住の写真家須田栄一さんの写真集です。遠くから眺める谷川岳でなく、自分がそこへ入りきって刻々と変わる光と影、色彩の瞬間を、その場の空気とともに切り取った写真の数々が展開。朝の空気の身を切る冷たさや、春の山肌の岩のぬくもりが感じられます。 頒布価格:3800円 左:オジカ沢の頭 |
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星野龍史作品集 エチュード 「聖地巡礼」 2004・平成16年刊 |
2001年、ネパールのダウラギリT峰(8167m)を登攀中に行方不明となった星野龍史君(33)の絵画作品集。「すっきりした線で山の雰囲気がよく出ている。やさしい絵だと感じる」と、遺作をまとめた元桐生工業高校山岳部顧問岡重雄氏は語る。 ほかの絵:ラリグラスを抱く少女 BCよりのぞむガッシャーブルムT峰 ご希望の方は岡氏へ:soka@kl.wind.ne.jp または0277-32-0446 頒布価格:2500円 左:豊穣の女神アンナプルナ峰(南壁・1987年冬) |
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●群馬県高体連登山専門部の山の本 | |||
1980群馬高校教職員 インドヒマラヤ登山隊 「シャルミリ」 1981・昭和56年刊 隊長は住職村上泰賢 |
1980年夏のインドヒマラヤCB53峰(6090m)初登頂と、ラダック・ザンスカール踏査の記録です。2年半かけて準備し、未知の北インドヒマラヤに入り、氷河にルートを探して初登頂。「シャルミリ」(恥ずかしがり屋の娘)と命名しました。 左:主峰ムルキラの右にそびえるCB53峰(シャルミリと命名) |
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1985群馬高校教職員 カシミール登山隊 [ガンガバル紀行] 1986・昭和7月1日刊 |
カシミールーラダック道路の途中、ソナマルグから山に入って、ガンガバルレイクを目指したトレッキングの記録。草原のウォーキング、テントを切り裂く泥棒、マス釣り、水タバコ、オタマジャクシ論争と隊員の連続日記がたのしい。 | ||
1992群馬高校教職員 インドヒマラヤ登山隊 「ストックカンリ」 1993・平成4年刊 |
1992年夏、インドヒマラヤ・ラダック地区のストックカンリ峰(6153m)に登った記録です。ラダックの中心レーの街からそそり立つ秀麗なピークをのぞめる。登山後レーから陸路マナリへ出た記録や地質、畑地灌漑、植物、インド料理、音楽などの調査活動の記録も面白い。 左:頂上付近から南西の山々 |
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1997群馬高校教職員 インドヒマラヤ登山隊 「チャウチャウカンニルダ」 1998・平成9年刊 |
1997年夏、インドヒマラヤの中でも秘境といわれたスピティ地区の名峰チャウチャウカンニルダ(6303m)に登った記録。長いこと外国人が入域禁止だったスピティ地区が数年前に解禁になったことから、憧れの気持ちをこめて入った。 左:頂上から北西の山なみ |
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田中壯佶『遠い頂』ヒマラヤの記録と断想 ・「スーパー クライミング ドクター」の異名を持つ男の遺稿集 非売品 *村上泰賢も編集者 |
マナスル西壁笠岩をナワバシゴで突破する |
・前橋市出身、脳外科医、高校から登山を志し、真摯な登攀活動を続ける ・1971マナスル西壁登攀隊(登山隊ではない)に参加、積極的な登攀で登頂成功に貢献、以後1972ダウラギリW峰、1973エベレスト南壁、1978マナスル、と立て続けに参加し、単なるヒマラヤドクターにとどまらずクライミングに挑戦した男の記録 ・4つのヒマラヤ登山の内二つは恋人・妻への書翰がそのまま登山記録となっている珍しい構成です。 |
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▲上記『遠い頂』編集後記から:
・『日本百名山』を著した作家深田久弥は、「社会人になっても登山を続けるにはどうしたらいいか」と学生から相談され、次の三つの条件をあげたと講演で語っていた。 1、いい会社に入らないこと―そこでの出世競争に巻き込まれ、登山などやっていられなくなる。 2、金を貯めないこと―もっと楽をして楽しめることがいくらもあるから、登山などやらなくなる。 3、美人と結婚しないこと―また山に行くの〜、と涙を流されたら山に向かう心が鈍る。 しかし、田中さんは外から見るかぎりこの三条件などあっさり超克した上、登攀と医業を貫いた稀有な人と見える。そこには人知れぬ努力や苦労があったことだろうが、山に登ることによって「大きな人間になる」ことを目ざした求道の生き方と、それを受け入れた千枝子夫人の大きさが文中から浮かび上がってくる。 ・昨年2月末頃に田中さんから電話があって、夫妻で拙寺へおいでになったのは3月中旬だったか。群馬岳連の会合で言葉を交わしたことはあったが、山行を共にしたことはなかったし、私が岳連の会合に出なくなったから久しぶりの顔合わせだった。 「重い病気の診断が下された。生きる覚悟を造りたい」 という話だった。死ぬ覚悟ではない。残された時間をうろたえずにどう生きるか、という意味であったろう。 お釈迦様の教えを基本に実践する生き方を勧め、5月連休すぎに長男の志岳さん家族と次男成岳(なりたか)さんが立会人となってご夫妻ともども生前戒名を受ける「授戒」が終わると、壯佶さんにすっきりした表情が浮かんだ。 仏教では生き物すべての生命の源を地水火風の四元素(四大という)とみていて、さらにその根源が空という話になった時、「その空を墓に彫りたいのです!」と我が意を得たように言い、私が書くと伊香保温泉下の墓石に刻んで墓石の開眼法要も済ませた。葬儀の式場に着くと、山を中心とした自分の生涯をDVDにまとめて流していたのには、畏れ入った。「父は自分の生涯の最期を登山のように準備し、実行し、まとめました」と志岳さんがしみじみ語ったように、まさに覚悟の人生の締めくくりであった。 ・私が不覚だったのは、病気が重いといってもまだ急ぐ話でもあるまいと、折を見て登山記録の刊行も切り出してみようと思っていたこと。9月の訃報は私にとっても不意であった。 四十九日忌が済んだところで千枝子夫人に遺稿集の刊行を勧めた。もっと早く本人に相談をかけておけば構成・原稿集め・編集がスムーズだったろうと内心悔やみながらのスタートだった。ところが預かった資料から、本人が刊行を準備していたメモが見つかった。そこには題名『遠い頂』も、主な目次も、基本となる四回のヒマラヤ登山の原稿もあったから、おのずと編集の基本が決まって頂が見えてきた。編集作業の背後にいつも田中さんの柔らかい視線が感じられ、楽しい時間であった。 ・追悼集でなく遺稿集であることから追悼文は限られた方になり、ほかにお願いして然るべき方を割愛する結果となったことをお詫びしたい。八木原会長には監修にもご協力くださり御礼申し上げます。 (村上泰賢 むらかみ たいけん・群馬岳連及び高体連登山部参与 東善寺住職) |