住職のコラム ● 修証一如ーハスの花のこころー
  ハスのこころは  
修証一如(しゅしょう いちにょ)

 「方丈(ほうじょう)さんハスの花はエンギが悪い花だんべえ・・・」
と、檀家
(だんか)の人からたずねられました。
 「どうしてエンギが悪いんです?」
 「だって、よく香典(こうでん)の袋や、法事の引き出物に印刷してあるから・・・。何か、死んだ人と関係があるんだんべえ・・・?」

 こういう誤解
(ごかい)をしている人がたくさんおいでのようですが、とんでもない、ハスの花はおめでたい花です。
ハス

東善寺門頭
ハス池ではなく、鉢植えの数株です
8月のお盆ごろに咲きます

 県内ではハスは東毛の館林地方にハス田がみられます。どのハス田も沼や川に近く、低湿地(ていしつち)のぬかるんだ泥田(どろた)に、大きな青い葉を広げ、いまごろになるとスッとのびた茎(くき)からほんとうに美しい高貴(こうき)な花を咲かせます。

 インドでは、昔からこのように泥の中から生まれ出て泥にまみれず、気高い姿で花を咲かせるところに私たち人間の理想の姿を見て、たいせつな花、聖
(せい)なる花として尊(とお)とんできました。

 どんな苦境
(くきょう)にあっても、つねに向上(こうじょう)しようと努力する人はどこにもいます。今の自分の環境(かんきょう)に不平不満を言っていたらきりがありません。まず今ここに生きていることをかみしめることから努力が始まるのです。

 じつはハスの花が尊(とおと)ばれるもう一つの大きな理由があります。写真などでよくみると、花が開いたとき、すでにその花の中にハスの実(み)がみのっていることです。
咲いたばかりの花の中にもう実ができている
花弁が落ちると左のように実だけ残る

 「何のために勉強しているのかわからない」
という学生や
 「こんなことして何の得になるのか」
といって、人のために尽くすことをいやがる人がいます。

 ハスの花はそういう人に、努力すれば(「修すれば」)、必ずそのあかし(「証あり」)はあるということ、しかもその「証」はあとから現れるものではなく、努力しているそのことじたいの中にすでに生まれているのだと教えてくれています。

 「廊下(ろうか)のゴミを拾(ひろ)ってなんになる」
 「おれが捨(すて)てたんじゃねえ」
という中学生や高校生も
 「ゴミをひろえば、拾うおこないのうちにゴミを捨(す)てない人間になれているんだよ」
と聞かされると、自分から拾うようになります。

 修証一如とは、努力と結果が一体であることをあらわした言葉です。


                 (1985・昭和60年8月・東善寺だより)