法話・東善寺HP         修証一如・努力と結果は一緒に


修証一如
(しゅしょういちにょ)
努力と結果は一緒・ウラオモテ

努力した後でいいことがあるのではない
努力の中に結果が入っている

「努力すれば、あとでいいことがあるよ」
…大人はよくこう教えます。

でも、これはうっかりすると
あとでいい結果がありそうもないから、努力もヤ〜メタ、と計算する子供を育てかねない。

以前高校に勤つとめていました。

 廊下にゴミが落ちていました。両手がふさがっていたので通りかかった男子生徒に
 「おい、そのゴミ拾ひろっといておくれ」
というと、
 「おれが捨てたんじゃあねえ」
反抗期ですねえ。

 「それはわかっているけど、拾っておくれよ」
すると生徒は
 「先生、拾ったってムダだぜ」
と、まだ抵抗ていこうします。

 「なぜムダだね」
 「どうせまたゴミが落ちるから、ムダさ」
 「そうか、どうせまたゴミが落ちるからムダかね」
 「そうさ、ムダだよ」
理屈りくつを言って得意そうです。

 「じゃあ訊くがねえ、君は腹が減ったらどうするね」
私はニコニコと訊たずねます。

 「飯めしを食うに決まってるよ…」
生徒は何でそんなこと訊くのか、という顔です。
 「じゃあ、今度から腹が減っても、飯を食うのは、やめとけ」

▲ハスの花は中心にもう実ができている

 「ひでえなあ先生は、何で飯を食ってはいけねえんだよ」

私は一呼吸ひとこきゅうおいて、ゆっくり答えます
 「食べても、どうせまた腹が減るよ。ムダだからやめとけ」

生徒は少し考えて意味がわかったらしく、
 「しょうがねえなア、わかったよ」
とゴミを拾ってくれました。

私はゴミを拾い始めた生徒に追い打ちをかけます。
 「そうそう、えらいなあ君は。ねえ、ゴミを拾うことはあとがきれいになるだけじゃないんだ。ゴミを拾う人は拾いながらゴミを捨てない人間になっている、だから君はえらいんだよ」

 「へえ、そんなもんかねえ」
と言いながら、生徒はなんだか嬉うれしそうです。


ハスの花はインドでは高貴こうきな花として尊とうとばれています。
その理由は2つあります
一つは、その根をドロ深いところに置きながら、茎くきを伸ばして素晴らしい花を咲かせること。人間もかくありたい、という理想の生き方を示しています

二つ目は、花が咲いた時その中心には既すでに実ができていること。つまり努力(修)することとその結果(証)が一体になっている姿を見せてくれています。努力と結果は一体、ということを「修証一如・しゅしょういちにょ」といいます。

ゴミを拾うときれいになって、あとでまわりの人が喜ぶ、…‥だけではない、拾う人は拾いながら捨てない人になっている。努力と結果はウラオモテ、です。
                    (2013平成25年7月「東善寺だより」)


   特報!

 甲子園に初出場で初優勝した前橋育英高校の
野球部監督荒井直樹さんが偶然
同じことを言ってます
    
「ゴミを拾う子は捨てる子にならない」


▲朝日新聞 2013平成25年8月23日「ひと」
          ▲上記の記事は読みにくいでしょうから 最後の一節を下記にひろいます
 
 「…‥…‥。さそいがあった前橋育英で監督に就任しゅうにんした2002年。部員の暴力問題が起きた直後で部は荒れていた。選手と毎朝、寮や学校周辺のゴミ拾いを始めた。「ゴミを拾う子は捨てる子にならない」。大会期間中も宿舎周辺を掃除した。
 『過去
かこで飯が食えるのは総理大臣と横綱だけ』が口癖くちぐせだ。24日から早速、練習を再開する。」
【付け足し情報】
 凡事徹底ぼんじてってい 
 荒井監督は毎朝寮を出て街のゴミ拾いをする野球部員に「いっさい口を利かないで、黙って拾う」よう指導している。小さなことに気がつく人間になってほしい、とも言っています。
 黙ってすることで集中力が身につきます。たしかに大事なことです。
 
 この野球部は大学の小生の先輩に当たる古渓静哉(ふるたにじょうさい安中市曹洞宗雲門寺住職・故人)教諭が創設したもので、禅の奥義に通じるこの監督の指導をあの世でさぞ喜んでいることでしょう。 
   優勝おめでとうございます、古渓さん!!               (村上泰賢)

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