住職のコラム ● ● 迎え火 |
迎(むか)え 火 |
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「すみません。Mさんのお宅はこのへんですか?」 数年前の夏7月、東京のお盆で私はお檀家(だんか)の家をさがして、入った路地が間違(まちが)っていたらしく、ちょうど目についた家の人に声をかけた。 「もう一つ先の路地ですよ」 私がたずねると、ふりむいた若いほうの奥さんが教えてくれる。そのうしろからなにやら煙(けむり)がゆっくり立っている。あ、迎え火か、・・・・・東京でも迎え火をたくのか。 東京でも迎え火をたく。そう気がつくとなにやらうれしくなってきた。東京の町がどんなに近代的な装(よそお)いに見えても、人の心は昔ながらのしきたりの中に落ち着きを求(もと)めているのだろう。 お礼を言って教えてもらったほうへ歩き出したが、待てよ、ここまでくる途中でほかに迎え火をたいている家を見なかったから、どうもあそこの家だけのようにも思える。そう考え付くと、なんだか口でお礼を言うだけではすまないような気がしてきて、途中(とちゅう)からまた引き返した。 さっきの家族は迎え火をたき終えたらしく、おばあさんと息子夫婦らしい三人がちょうど家に入ろうとしているところだった。私がまた戻(もど)ってきたので、少しけげんな様子で私をチラと見た。
「すみません、さっきはありがとうございました。これ、ほんのお礼です・・・・」 カバンからお盆のパンフレットをおばあさんに差し出した。「おやまあ、・・・」と、おばあさんはうれしそうに受け取る。 家に入ろうとしていた若いほうの奥さんが「おばあさん、よかったですね」とうれしそうに語りかける声が、歩き出した私の後ろに聞こえた。 その声が、しみじみしたいい感じの語りかけの言葉と声だった。この春におじいさんでも亡(な)くされたのだろうか・・・・、いたわりあって暮らしているらしい家族の姿が見えてくる声だなあ。 そんな事を思いながら私は、夏の夕方の東京の路地(ろじ)を歩いていた。 また夏、お盆がやってきます。 迎え火をたくことは子どもの心にとても豊(ゆた)かなものを残します。ひととき心を休めてゆったりとご先祖を迎えましょう。 (1998・平成10年8月・東善寺だより) |