住職のコラム 煩悩
煩 悩(ぼんのう)・《新年にあたって》
 大晦日(おおみそか)に全国の有名寺院で鳴らされる除夜(じょや)の鐘を、今ではいながらにしてテレビで見聞きできるようになった。この時打ち鳴らされる鐘の数は百八つと決まっている。

 百八つという数は、仏教でいうところの煩悩の数で、その数だけつくことによって1年のチリを払い、新しい年を迎えようというならわし。だから百七つは旧年に、百八つめを新年につく。
葉ボタン


 ところで私たちの心に百八つもある煩悩とはどんなものか。たとえば、保険金を狙(ねら)って自分の子供を殺してしまうというとんでもない事件が起きたが、その親は「遊びたい」という煩悩に振り回されて、自分をコントロールできなくなった人の姿そのものといえる。

 人は誰でも、成功したい、技術を身につけたい、収入を増(ふ)やして楽な生活をしたい、人から認められたい・・・・という心を持って生きている。この「〜たい」が健全なものであるときはその心を「向上心」という。ところがこの「〜たい」が自分本意なものに変わって、人に迷惑(めいわく)をかけたり努力しないでよい結果だけをほしがるようになったとき「煩悩」となる。

 「同じ水を飲んで、ヘビは毒を出し、牛は乳を出す」
とたとえにあるように、同じ心を「向上心」にするか、「煩悩」にするかはその人の心の持ち方が決める。さらにいえば、その人の心の持ち方を決めるのはその人の宗教心とでもいおうか、自分を謙虚(けんきょ)に反省し、心をコントロールできる生き方であろう。

 新年にお寺へ初詣(はつもうで)するのは、ご先祖のみ魂(たま)への挨拶の意味だけではない。この一年の自分の生き方をふりかえり、新たな気持ちで新しい年を迎える「向上心」の確認であり、「煩悩」を起こしがちな心をコントロールする訓練でもある。

(1991・平成3年1月・東善寺だより)
 BACK