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小栗上野介と渋沢栄一

渋沢栄一は一万円札になれても、岩崎弥太郎はなれない


 
 「あのとき小栗上野介にはねつけられていたら、一万円札の渋沢栄一はなかったかもしれませんね…」と電話で笑って語ったのは、深谷市の歴史愛好家で知られるS氏。平成31年2月17日に渋沢栄一記念館で講演した時お世話になった人。

 あのとき、とはいつ、渋沢栄一とどんな話があったのか。

1866慶応二年のパリ万博の開会に合わせて将軍徳川慶喜の代理として弟昭武が派遣されることとなり、昭武は十二月に横浜で準備に追われていた。万博出品責任者である勘定奉行の小栗上野介は出発前の昭武の元へ挨拶に出向いた。

 昭武の従者渋沢篤太夫(のち栄一)は、会計担当として随行することになっていた。万博のあとイギリスはじめヨーロッパ各国を巡歴したのちパリに長期留学する予定の昭武の滞在経費を心配して、小栗上野介へ挨拶に行った。

 留学で5年間滞在中の経費についてくれぐれも滞ることのないようお願いする旨の渋沢の挨拶を聞いた小栗はこう言った。

「お前さんは面白い男だねえ。ついこの間、攘夷討幕を唱えて赤城山に挙兵して高崎城を乗っ取り、横浜へ押し上げて外国人を海の向こうへ追い払うと計画していたのに、そんな5年も先のことを心配するのはおかしい話だ」



▲本宮ひろし『猛き黄金の国』(集英社)1991~
渋沢はびっくりした。
 たしかにそのとおりの計画を進めて仲間と武器を集めた。決起する寸前にどう考えてもこの計画は無謀で実行不可能、うまくゆくはずがない、という冷静な意見が出て中止となり、このまま留まっていればいずれすべて露見する、として深谷を出てバラバラに各地へ散った経過がある。それを初対面の小栗がすべて承知していたのだ。

 渋沢が冷や汗をかきながら「いえ…、それはもう昔の話で…」というと、小栗は「何をいうか、まだ1,2年前の話ではないか。まあいい、冗談だ。一生懸命昭武公のために働いてくれ」と笑ってその場を収め、「自分が勘定奉行の間は間違いなく金を送るから心配するな」と言ってくれた。付け足して小栗はこうも言った。「しかし、幕府の運命についての覚悟だけはしっかり決めておくことが必要であろう」

 その後両者の間にどんな会話がかわされたか正確な記録は見つかっていないが、渡米経験のある小栗上野介からこんこんと外国事情・経済・経営・見るべきもの・注意すべき事柄を伝えられたに違いない。

本宮ひろ志のマンガ『猛き黄金の国』(集英社)は三菱を興した岩崎弥太郎を描き、宝塚でも上演されたことで知られるが、三菱に対する三井が幕末から明治に乗り切れたのは小栗家に出入りしていた三野村利左衛門の力があってのことだから三野村の活躍も描き、指導した小栗上野介の業績も描かれている。

 そして最後に明治政府に殺された小栗上野介の遺志を継いで日本経済に貢献したのが渋沢栄一、という締めくくりを見せている。本宮ひろ志というマンガ家は骨太の描写で知られているが、これほど小栗上野介をめぐる状況を把握していたとは…、と感心した。

 もしあの時、とS氏が言うのは、小栗上野介が頭の固い人物だったら渋沢の言葉などはねつけて、渋沢のパリ随行もなくなっていたかもしれない。そしたら、彼の人生も変わり一万円札になることもなかったろうということ。

〈 ついでに 〉
 渋沢栄一が一万円札の顔に選ばれたのは、たくさんの会社を興しておきながら彼の名前を冠した会社は一つもないこと。彼の経営哲学からだろう。

 三菱はイコール政商岩崎弥太郎というイメージが強すぎて、一万円札の顔にしたら「三菱のお金」のイメージで使いにくい。明治政府と深く結びついた営業行為の品性からいって世の非難轟々ごうごうが目に見える。岩崎が1万円札に登場することは永遠にないだろう。


  参考ページ
小栗上野介の言葉 3 →渋沢栄一の談話
◆小栗上野介の言葉 「幕府の運命、日本の運命」:幕府政治の終焉を予感していた小栗上野介
新一万円札に登場、渋沢栄一って誰?(日経ビジネス)