小栗上野介●●西洋式軍隊訓練 |
1867慶応三年、陸軍奉行小栗上野介は幕府の洋式陸軍を近代化し強化するため、フランス師軍事顧問団の指導を受けて三兵(歩兵・騎兵・砲兵)伝習(調練)を行なった。また「賦兵の制」を開始して、旗本たちが洋式軍事訓練を行なうことを勧めた。日本における徴兵制度の基本である。
■場所
はじめ 横浜、太田陣屋(現在の日の出町一丁目)
のち 横浜は地理的に不便でかつ手狭なことから慶応三年六月から江戸駒場野(目黒区駒場)へ移転。
太田陣屋・『ザ・ファー・イースト』より
■軍事顧問団 15名
団長: シャノワンヌ Charles Sulpice Jules Chanoine (左の写真)
団員: ブリュネ(Jules Brunet、右の写真)、デュブスケ、メッスロー、デシャルム、マルラン、イグレック、ペルセル、
フォルタン、グティッグ、ボネ、イザール、ヴァレット、メルメ、ブッフィエ
シャノワンヌ |
ブリュネ |
■伝習は
すべてフランス語で行なわれた。服装は当初まちまちであったが、ブリュネ大尉がやがて一定の服制を作った。両刀も伝習には邪魔であり、はずしてフランス式の軍刀にし、もとどりを切り靴をはく洋式軍装になった。
■主な伝習生
沼間 守一……のちの民権運動家
荒井郁之助……気象台長
大鳥圭介………旧幕府脱走軍(函館)陸軍奉行 のち枢密顧問官
益田 孝………三井物産社長
……その他で、歩兵1000名、砲兵650名、騎兵350名であった。
小栗又一のほかに家臣佐藤銀十郎ら権田村出身の若者たちも加わっていた。
フランス式軍装
革靴も履いている
左から
小栗又一(高崎で斬首される)
大井磯十郎(上野介とともに斬首される)
佐藤銀十郎(小栗夫人を守って会津で戦死)
■伝習生への信義・「日本のダルタニヤン」ブリュネ
伝習開始一年足らずの1868慶応四年一月、鳥羽伏見で薩長軍と幕府軍との間に戦端が開かれると、軍事顧問団はフランス本国からの命令にしたがって横浜に避難し、中立の立場を取ることになった。
しかし、伝習生への信義からブリュネは9人のフランス人同志とともに、榎本武揚の率いる旧幕府軍に参加。かつての生徒たちと行動をともにし9ヶ月にわたって仙台・箱根に戦い、五稜郭陥落直前にフランス軍艦に移って帰国した。
■図絵
砲兵隊員たちの最初の行進・江戸にて・1867慶応三年七月六日
ナポレオン三世から贈られたアラビア馬の贈呈式・江戸城内にて 1867慶応三年七月二十七日