小栗上野介の史跡●●  水沼河原・観音山・相間(あいま)川など

水沼河原・観音山・相間(あいま)川など


 顕彰慰霊碑・水沼河原
小栗主従はこの河原で西軍によって殺害されました。


■烏川堤防のわきに建つ顕彰慰霊碑
国道406号で信号「倉渕郵便局前」から南へ200m
烏川のほとり・水沼橋のたもと右側(上流側)
碑文
「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる 岳南蜷川新書」

昭和7年、村人は基金を出し合ってこの碑を建てた。
上野介夫人道子の妹ハツの息子で義理の甥にあたる法学博士
蜷川新の書が、訪れる人に上野介の無念を伝える。

参照:
勝てば官軍は勝者のおごり

観音山の屋敷跡 
                     ▲この丘の上が屋敷跡


小栗上野介は権田の観音山に屋敷を建てて住もうと工事を進めていた。現在その屋敷は前橋市総社町に民家都丸氏邸となっている。
観音山は国道からいっきに上がった小高い丘の上で、屋敷跡地や馬場の跡がそのまま残り、遠くの沢から上野介が引いた用水がいまも流れつづけている。

「いまにこの谷から太政大臣を出して見せる」
上野介は村に土着して若者に新しい時代に対応できる教育を施そうと考えていた。「ぶちこわし」の暴徒を追い払った後、脅かされて暴徒側に加わったことを詫びにきた隣村の村役人に、その夢を語ってこれからは手をたずさえてやって行くことを説いた。

アメリカ帰りが4人いた

この屋敷が出来ていればその夢が展開されたはずであった。
当時この村には、小栗上野介を含め塚本真彦、江幡祐造、佐藤藤七と、世界一周をしたアメリカ帰りが四人もいたし、養子又一はフランス語伝習所を卒業した優秀な若者だったから、それは可能であったろう。


小高用水    
 権田村字小高の部落は流水が乏しく、いつも田植えの水確保に困っていた。上野介が観音山に器械測量で簡単に水を引いたので、小高部落の人々は小栗上野介に頼んで尾根向こうの沢から引く用水の道を測量してもらった。      

▲小高の集落
                                   ▲小高用水
  『小栗上野介日記』によれば4月12,14日に水路検分のため小高へ出向いている。以後、140年にわたって現在も部落の各家の水番が交代で守って、小高部落の子や孫を安心して育てる源泉として流れつづけている。

塚本一家の悲劇

 塚本真彦は小栗家の用人。万延元年には従者として渡米し、地球一周して帰国している。家族で上野介に従って江戸から権田へ移り住んだが、真彦が高崎で小栗又一とともに斬られると、塚本夫人は、母親、娘三人、息子とともに権田を逃れ、七日市藩(前田家・富岡市)の知るべを頼って、松井田へ出ようと山道に分け入った。山中で道に迷い、母親と幼女一人が自害。夫人は幼女二人を相間川に沈め、男子のみを背負ってようやく松井田に現れ、助けられて七日市へ向かった。
関連ペー:地蔵峠

姉妹観音
小栗家の用人塚本真彦の幼女二人を悼んで建てられた、一つの石から二体の観音像を掘りだした石仏
刻・萩原義雄

 平成4年12月、小栗上野介顕彰会は殉難した幼女二人を悼んで、この観音像を相間川のとおらず渓谷のほとりに建てた。一石から姉妹を彫った珍しい像。制作:萩原義雄(吉岡町)
この悲話は小板橋良平著『小栗上野介一族の悲劇』に詳しく調査報告されている。

関連ページ
遣米使節小栗上野介の従者
横浜フランス語伝習所:日本最初のフランス語学校
勝てば官軍は勝者のおごり:何をしても正しい軍隊はない