小栗上野介の扱い(HP東善寺)   小栗上野介はなぜ歴史から抹殺されたか


小栗上野介の歴史
なぜ歴史から抹殺されたか

殺したのが西軍

 小栗上野介の史跡を訪ねてお参りにおいでになる方から、どうして日本の近代化にこれほどの業績のある人を学校で教えないのでしょう?という質問があります。

 その答えはもちろん「西軍が殺したから」です。
 もうひとつ付け加えれば、「いまの学校教育は西軍、のちの明治政府が始め、明治政府側に都合のよい歴史観で教えているから」です。


殺された地に建つ顕彰慰霊碑
偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる
(倉渕町水沼河原)

この碑を建てるにも、警察からのクレームがあった(昭和4年頃)。
明治政府の強盗殺人

 西軍は慶応四年閏四月6日(西暦1868年5月27日)に小栗上野介と家臣3名、翌日7日に高崎で養子の又一と家臣3名を殺した。又一はフランス語の通訳もできる若者だった・・・。
 それだけではない。
江戸から東善寺へ運ばれていたたくさんの家財道具を、高崎に運び嶋屋で競売に付して金に換え、軍資金にして持ち去った。
 現代風に言えば、「社長と専務を殺し従業員も6人殺して財産を奪って売り払った」、この行為を裁判にかけるとどういう罪名がつくか。とうぜん強盗殺人罪が適用される。

  いまの学校教育は明治5年から始まっていて、およそ130年経ったところ。明治5、6年ごろの明治政府は今風に言えば「開発途上国の革命政府」ですから、口が裂けても前の幕府政治のよかったところや、幕末の近代化の努力などは教えたくない。「今の政府がいい政府」「これからの政治がどんどんよくなる」「日本を近代化したのは明治以後」と教え、反対に「前の幕府政治は無能な暗黒政治、役人は暗愚」とする基本線で歴史教育を行ってきました。


逆賊扱い
 
 
 まして罪もない小栗上野介父子と家臣を殺し、財産を奪っておいて、学校の歴史で「小栗上野介はこれこれの業績がある」などと教えれば、「では誰が殺したの?」という話に戻ってしまうから、歴史教育で抹殺し無視し、むしろ朝廷に反逆を企てた「逆賊」扱いすらしてきました。


 こういう視点で作られた映画は、戦後も「鞍馬天狗」「怪傑黒頭巾」「月形半平太」などの題名で作られ、公開され国民を教育してきた。

 作家井伏鱒二は最晩年に小栗上野介の小説を書いていた。未完のまま亡くなったので発表されていないが、そのことにふれて昭和53年ごろ新聞記者に「小栗さんのことはみんな書いてない。久米邦武なんかも書かなかった。あぶないからね。明治の文部省が抑えていたんですよ」と語っている。