住職のコラム (東善寺)   勝てば官軍

何をしても正しい軍隊はない 
「勝てば官軍」は
    権力者のおごり

「この造船所は、幕末に小栗上野介が大変な苦難を乗り越えて着工にこぎ着け、今に至っている……」大正四年、横須賀海軍工厰創設五十周年式典の挨拶で大隈重信(代理)は、こう語って参列者を驚かせた。明治政府が作ったのではないのか、という驚きだった。
幕末に着工し、建設費の借金と共に明治政府に引き継がれ、明治二年から次第に施設が出来上がってゆき、四年から本格的な造船を開始したまま、明治政府は黙って使ってきたから無理もない。
 大隈夫人綾子は上野介夫人道子のいとこに当り、明治政府に引き継がれた造船所建設の借金を返済して日本政府のものとすることに大隈は苦労したので、この挨拶となった。この挨拶がきっかけで、横須賀海軍工廠では恩人として、上野介と仏人技師長ヴェルニーの胸像を募金によって作成した。

 これよりさき明治四十五年夏、東郷平八郎は上野介の遺族を自邸に招いた。部屋へ通されると上座に座れという。辞退すると「上野介さんの代りに来ていただいたのだから」と強いて座らされた。東郷は「日本海海戦においてロシアの艦隊を打ち破って完全な勝利を得ることができたのは、あなた方の父上、上野介さんが横須賀造船所を作っておいてくれたお陰です。ひとことお礼を申し上げたかった」と語ってご馳走し帰りぎわ、記念にと「仁義礼智信」の書を書いて贈った。平成九年の百三十回忌小栗まつりにあたって、その書額が子孫から「曾祖父の名誉回復にはこれを見ていただくのが一番」ということで東善寺へ寄進された。


小栗家の遺族に礼を述べた東郷平八郎
 (三笠艦にて・横須賀市)

 昭和四年、上野介の無実の死を悼む村民の浄財により、上野介主従が殺された河原に慰霊の石碑を建てる計画書が、高崎警察署に出された。明治以来、こうした建碑は内務省に届けて許可を得なければ建てられなかった。窓口は警察署である。まもなく高崎警察署長から建碑責任者の市川元村長に呼出しがあった。
 署長は告げた。
「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる、と碑文にあるが、斬ったのは官軍だ。官軍は天皇様の軍隊だから、罪のない者を斬るはずがない。あの碑文は穏やかでないからなんとかしろ」

 勝てば官軍負くれば賊軍、という言葉がある。明治維新後に生まれ、本来は勝者のおごりをいましめた言葉だった。盛岡での戊辰戦争殉難五十年祭でも、原敬が「明治政府軍はたまたま勝って官軍になれただけなのに、したい放題をし過ぎではないか」として、この言葉を挨拶に用いている。ところがいつの間にか、勝ちさえすれば何をしても構わない、という権力者に都合のいい意味に曲解され、明治以後の官権・軍権政治のゆがみを生む原動力となってきた。署長の「なんとかしろ(倒しなさい)」という横槍もこの延長上で発せられたものであろう。

 困った元村長は村へ戻ると、碑文を書いた国際法学者蜷川新博士に手紙で、相談した。母が小栗上野介夫人道子の妹はつ子で、蜷川は昭和初年の著書で上野介の無実を書き、明治政府軍の処置を追及していた。まもなく蜷川から「待っていなさい。田中義一(この時元総理大臣)に話をさせるから」と返信があり、そのまま署長の話は沙汰やみとなって、今も無事に碑が立っている。

( 上毛新聞2000年7月9日オピニオン・に加筆)

*「勝てば官軍、負れば賊軍」…は「(あなた方は)勝ったので官軍、(こっちは)負けたので賊軍」という意味。「もし勝ったら…もし負けたら」ではない。

*「勝てば官軍、負れば賊軍」…として「もし勝ったら官軍、もし負ければ賊軍」という意味に用いるのは、誤った用い方です。この意味でいう場合は正しくは「勝ば官軍、負ければ賊軍」となります。

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