本    小栗忠順のすべて         

「小栗忠順のすべて」
小栗上野介・幕末史の研究家や作家が描く
                小栗上野介のすべて…
村上泰賢編  
新人物往来社発行 2008平成20年4月 280頁 
2940円
(税込)
◆絶版です。時々古書で出ます
小栗忠順とその時代…………………高野澄
小栗忠順の出自と人物………………村上泰賢
小栗忠順の家計簿………………… 佐藤雅美
小栗忠順の情報力………………… 岩下哲典
小栗忠順と近代文明都市・横須賀…山本詔一
小栗忠順の株式会社……………… 村上泰賢
小栗忠順と横須賀造船所……………安達裕之
徳川慶喜と小栗忠順…………………童門冬二
小栗忠順の斬首………………………村上泰賢
小栗忠順夫人会津へ脱出…………小板橋良平
小栗忠順の顕彰………………………村上泰賢
小栗忠順関係人名辞典………………結城しはや
小栗忠順史跡事典…………菅井靖雄・村上泰賢
小栗忠順年譜…………………………真辺将之
小栗忠順関係文献目録………………真辺将之

あとがき…………………村上泰賢
           あとがき より  
   …………
 鞍馬天狗や怪傑黒頭巾で教育された私は、若いころは境内に小栗忠順主従の墓があっても、格別の関心を寄せることなく、ときたま訪れる歴史探訪のお年寄りに
、「咸臨丸で渡米した」と、今にして思えば冷汗が流れる偽りを語っていた。それを聞く人も何の疑義も挟まず聞いてくれていた。あるとき、咸臨丸はサンフランシスコから帰国したのに、どうして当時のワシントンの新聞記事に小栗様が出てくるのか、という疑問から私の小栗上野介研究は始まった。
  せっかく山寺までお参りに来てくれる方に嘘を語っては申し訳ないと調べ始めると、小栗忠順の本当の姿は、まだ掘り出されていなくて、明治以来の逆賊扱いか、限定された功績をいささか過剰に褒める小栗論に終始していることが見えてきた。事実は何か、もっと他にないのか、具体的に一つずつ確認する作業を必要とした。
 まず遣米使節一行がワシントン、ニューヨークから日本人初の世界一周で帰国したことが知られていない。この遣米使節の事績は、明治以後の幕府政治否定教育の一環で教科書から意図的に隠された、と見えた。隠した証拠が咸臨丸の話、と言えば、ご理解いただけようか。
 近年のテレビや映画で、勝海舟が咸臨丸上で大活躍する場面が描かれなくなったのは、昭和35年に「万延元年遣米使節史料集成」が発刊されたことが影響している。     ………                         村上泰賢

   【書  評】                               雨宮由希夫

吉川弘文館の「人物叢書」、中公や岩波などの新書に、なぜか、『小栗』がないが、このたび、新人物往来社の「人物《すべて》シリーズ」に収まったことは慶賀にたえない。

編者の村上泰賢は、小栗忠順ゆかりの曹洞宗東善寺(高崎市倉渕町権田)の住職で、ひたすら幕末悲劇の人・小栗上野介の名誉回復のために尽力されてきた。

幕臣・小栗忠順は、文政十年(一八二七)に神田駿河台の小栗家代々の屋敷(いまYWCAビルがあるところ)に生まれた。小栗は万延元年(一八六〇)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節として渡米し、帰国から死に至る幕末の八年間、日本の近代化に努め崩れ行く幕府の屋台骨を支えた人物であるが、知名度という点で、勝海舟に及ばないことは遺憾ながら、認めざるを得ない。それというのも、勝が維新後、明治政府に海軍卿として迎えられ正二位に叙されているのに対し、小栗は慶応四年(一八六八)閏四月六日、隠棲先の上野国群馬郡権田村(高崎市町権田)で西軍により斬殺され、明治以後、逆賊扱いされたまま、今日に至っているからである。

小栗と勝を比較して、「徳川幕府という自己の所属する組織を護るためには、国益も何もかも犠牲にして恬として恥じなかった小栗」、「欧米列強の代理戦争から、徳川という組織ではなく、日本という国家を護ろうとした勝」というが如き妄説がまかり通った時期もあった。しかし、遣米使節目付(監察)として米国海軍軍艦ポーハタン号で渡米、ワシントンでの批准書交換が済むと米国軍艦ナイアガラ号に乗り、大西洋、インド洋を越えて帰国し、文字通り、わが国初の世界一周の栄誉は小栗らにあるにもかかわらず、世上では、今なお、ポーハタン号の護衛艦として日本―サンフランシスコ間を往復したにすぎない咸臨丸が喧伝され、その搭乗者の勝海舟が英雄視されている。このことに関して、村上は「咸臨丸を除くと遣米使節小栗忠順の本当の業績が見えてくる」とさりげなく、そして本質を突いて書いている。

本書の読みどころは、「小栗忠順とその時代」にはじまり、「小栗忠順の出自と人物」「小栗忠順の家計簿」「横須賀造船所と小栗忠順」「小栗忠順と株式会社」「小栗忠順の斬首」「小栗忠順夫人会津へ脱出」など、さまざまな角度から小栗が紹介され、一方的な上野介礼賛に堕することなく論じられ、併せ転換期日本の実相が活写されているところにある。

執筆者は、研究者の小板橋良平、作家の佐藤雅美、童門冬二など多士済々の十一氏である。仔細に読めば、執筆者間でも意見が分かれている箇所があるのは致し方ないことかも知れず、読者としては、さまざまなる小栗像をみつめることができる。

一,二、例を挙げる。大政奉還の報を聞いて、童門冬二は「小栗は切歯扼腕した」とするが、高野澄は「政権を放り出し、身軽になって外様大名を相手に戦争を仕掛けるというのかな。それでこそわれらが上さま!」と書く。慶喜の大阪城からの脱走については、童門が「このことを知って小栗は呆気にとられた。まず感じたのは『なぜ、そんなバカなことをしたのか?』ということである」とするに対して、高野は「敗軍の将の慶喜が浜御殿に上陸、しょんぼりした姿を見せたときにも小栗は意気軒昂であった。疲労が去れば戦闘開始を宣言するに違いないと思い込んでいた」といずれも楽天的な小栗像を造形している。両作家による小栗像はこのように落差の大きいものである。また、「製鉄所創立の功は水野忠精に帰すべき。小栗上野介が創立の立役者である事を印象づけるため巧みな事実の潤色を随所に加えた栗本の回顧録は史実の論証には使いがたい」とする安達裕之の一文は納得しがたい。

「あとがき」で、編者として、収録された作品に多少の異論が無いではないはずの村上は、「多くの作家・研究家のご協力をいただいて本書を公刊することができたが、さらに多くの研究を積み重ねていただき、史実を踏まえて小栗忠順の実像を明確なものとしてゆきたい」と結んでいるのはない事ではないであろう。

文久元年(一八六一)のロシア軍艦ポサドニック号対馬(つしま)占領事件に際して外国奉行小栗忠順の対応如何の問題に代表されるように、確かに小栗の評価は一定していない部分がある。甚だしきは「官軍に刃向かい刑死した罪人にすぎない」という評価を残している論者もかつていたし、司馬遼太郎でさえ『坂の上の雲』では、日本を担保に入れてフランスから多額の借款をし、幕府の軍備を増強し日本の将来を危うくしたという悪評に近い評価を下していたものである。

 卓絶した歴史小説作家の永井路子は新著『岩倉具視』で物事の真実を見定めるためには「攘夷」や「尊王」といった言葉の皮を剥げといい、場合によっては「明治維新」という言葉もその皮を剥ぐ必要があると書いているが、カッコつきの明治維新が足音立ててやって来るという時代の狂気に敢然と立ち向かった小栗上野介の実像を描写して、村上泰賢は、たとえば、一場面を次のように書いている。

大政を奉還し恭順の意を表している主君に討伐の軍を差し向ける西軍に対して、戦うことを進言するのは武士であれば当然である。まして倒幕後の新政府の青写真は示さず、「攘夷」や「王政復古」という時代錯誤のテーゼを掲げ、政権打倒のテロや略奪放火を繰り返して目的の為には手段を選ばない謀略の臭いふんぷんたる西軍に簡単に政権を渡して大丈夫か、という危惧を忠順は抱いたことであろう。

「明治維新」は、変革にせよ、革命というにせよ、いかなるものであったか、よくわからない、実に不可解な歴史的事件である。

小栗の残した言葉として、「幕府の運命に限りがあろうとも、日本の運命には限りが無い」という言葉があり、小栗の人柄がしのばれる。最後の最後まで、日本、日本人の行く末を案じていた孤高・覚悟の人であり、たぐい稀なる国際人であった小栗忠順を語ることは、「明治維新」とはいったい何であったかを語ることであると、評者(私)はかねがね思っている。

小栗上野介が非業の死を遂げて一四〇年の記念すべき年に刊行された本書が多くの人々に読まれることを心より(こいねが)う。(平成二十年四月六日 記)

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東京新聞:2008平成20年3月15日記事(リンク)